2025年7月18日、昭和のプロ野球界を支えた名遊撃手・**大橋穣(おおはし・ゆたか)**さんが、都内の自宅で静かにこの世を去った。
その知らせが明らかになったのは、それから9日後のことだった。
「長患いすることなく、運命を受け入れた――主人らしい最期だったと思います」
――これは、芳子夫人が語った言葉だ。
彼はいつも、目立たずとも“必要とされる人間”であり続けた。プレーも人生も、静かに誠実に。そして、そんな生き方がどれほどかっこいいか、彼は身をもって教えてくれた。
■ 死因は?
死因についての公式な発表はないが、芳子夫人のコメントに「長患いすることなく、自分は運命を受け入れるという、主人らしい最期だった」とあることから、老衰や軽度の体調不良による自然死と推測される。
自宅で家族に見守られながら息を引き取ったという事実だけで、彼がどれほど穏やかに生き抜いたかが伝わってくる。
■ プロフィール
- 名前:大橋 穣(おおはし・ゆたか)
- 生年:1946年頃(享年79)
- 没年:2025年7月18日
- 出身地:非公開(東京都内との説あり)
- 身長・体重:非公表(現役時代は小柄ながら俊敏なプレースタイルで知られる)
- ポジション:ショート(遊撃手)
- 投打:右投右打
■ 学歴
- 高校:日本大学第三高等学校(通称:日大三高)
- 大学:亜細亜大学(亜大)
大学時代は東都大学リーグで活躍。特に注目されたのが通算20本塁打のリーグ新記録。
当時としては“長距離砲のショート”という稀有な存在だった。
(※現在は井口忠仁氏の24本がリーグ記録)
■ 経歴(選手としての歩み)
▶ 東映フライヤーズ(1968~1971)
1968年、ドラフト1位で東映に入団。同期には山田久志、星野仙一、田淵幸一、山本浩二といったレジェンド級の面々。華やかな世代の中で、守備力と地味な堅実さが際立っていた。
▶ 阪急ブレーブス(1972~1979)
1971年オフ、西本幸雄監督の強い要望で阪急へトレード移籍。
この移籍が彼の真価を開花させる転機となる。
- 1972年:ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)初代受賞
- 1972~1978年:7年連続受賞(歴代2位タイ)
- 1975~1978年:阪急の黄金期に貢献(4年連続リーグ優勝、3年連続日本一)
“深い守備位置からでもアウトを取れる”プレースタイルでショートの概念を変えた一人と評される。
■ 引退後の活動
引退後も彼の野球人生は続いた。
- 阪急、オリックス、中日、ヤクルトなどでコーチ歴任
- 海外では台湾・韓国の球団でも指導者として活躍
- 日本式の細やかな守備・走塁の指導で、若手選手の育成に尽力
- 特にアジア圏では「日本流の野球を教えてくれる名コーチ」として知られていた
■ 晩年の暮らし
- 毎日メジャーリーグや大相撲をテレビ観戦
- 地元のスポーツクラブに通う日々
- 穏やかで健康的なセカンドライフを過ごしていたという
目立つことなく、自分のペースでスポーツと向き合い続ける姿勢は、現役時代と何も変わっていなかった。
■ 結婚相手は?
- 妻:芳子夫人
長年、影から彼を支えてきたパートナー。今回の訃報にあたっても、メディアに静かに感謝と別れの言葉を伝えていた。
夫婦の関係性を公に語ることは少なかったが、彼の人柄を見れば、その家庭がいかに穏やかで信頼に満ちていたかは想像に難くない。
■ 子供はいる?
子供についての公的な情報は公表されていない。
野球関係の二世情報や家族構成に関する記録も確認されていないが、仮に子がいたとしても、あくまで「表舞台に出すことは望まなかった」という本人の姿勢が反映されていた可能性が高い。
プライベートを語らない、まさに“職人肌”の野球人らしい振る舞いだ。
■ まとめ:静かなる野球人、その生涯に拍手を
大橋穣さんは、派手なスターではなかった。
けれど、彼がいなければ勝てない――そんな存在だった。
プロ野球を彩ったスターたちがいるならば、支えた名脇役たちも確かにいた。大橋穣は、まさにその中でも頂点にいた男だ。
長打を捨て、守備に命を懸けた。派手さを求めず、確実さに徹した。
そして人生の最後もまた、控えめで、潔く、静かに終えた。
昭和という時代の野球を知る者なら、誰もがうなずくはずだ。
「ああ、あのショートは、本当に凄かった」
心からのご冥福をお祈りします。
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